ぼくらの時代

ブルース・リー

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【引用:映画.comより】

ボクらの時代のカンフースターといえば、もちろんブルース・リーです。

あの「燃えよドラゴン」が日本で初めて上映されたときの日本中の若者の熱狂ぶりはすごかったです。わたしもそのひとりでした。

ファン歴40年以上のHiroakiがブルース・リーの魅力と当時のブームのすごさを解説していきます。

 

映画「燃えよドラゴン」がはじまりだった

1973年12月22日、1本のカンフー映画が公開された。おそらく日本では初めてのカンフー映画の公開だったのでは。

供給元がアメリカの映画会社ワーナー・ブラザーズだったので供給されたが、B級作品的な扱いで大きな劇場ではなく、少し小さな劇場での公開だった。

ただ、公開されるや一大ブームとなり、カンフー映画の火付け役となった。

それが「燃えよドラゴン」であり、日本人が初めて観たブルース・リーの主演映画だった。

映画を観終わって劇場から出てきた若者の多くが、興奮冷めやらないままブルース・リーのマネをして、時たま怪鳥音を発していた。

映画は当時としては異例のロングラン上映となり、半年以上上映された劇場もあったようだ。上映映画館数も拡大されて、翌年1974年の洋画配給収入第二となった。

また映画の影響で、日本少林寺拳法を習いはじめた人もかなり増えたようだ。ちなみにわたしもその一人です。

「燃えよドラゴン」以降、次から次へと過去のブルース・リーの主演映画が毎年上映されていった。どれも大ヒットである。

とくに「燃えよドラゴン」は日本だけでなく世界的に大ヒットしたが、それをブルース・リー自身が知ることはなかった。

公開前の1973年7月20日に亡くなっていた。32歳だった。

それゆえ、ボクらにとっては映画の中のブルース・リーがすべてであり、最強のカンフースターとなる。

そして俳優だけでなく、武術家としてのブルース・リーの過去や人生哲学などを知れば知るほど魅了されていったのである。

ブルース・リー プロフィール

1940年11月27日、サンフランシスコ生まれ。その後家族で香港へ帰国。

1953年には13歳のブルース・リーが5年間、詠春拳を修業している。

18歳のリーは、わずか100ドルの所持金で単身渡米し、シアトルに移り住む。

新聞配達のアルバイトをして、ワシントン大学哲学科に進学。勉学に励むかたわら、「振藩國術館」を開いて中国武術の指導を始める。

同じ大学の医学生で、道場の生徒だったスウェーデン系イギリス人リンダ・エメリーと結婚。その後、大学を中退し、道場経営に専念。截拳道(Jeet Kune Do/JKD/ジークンドー)を創始する。

1966年に、アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」で演武をしたフィルムが、TVプロデューサーの目に止まり、TVシリーズ『グリーン・ホーネット』の準主役、日系アメリカ人のカトー役に抜擢され、派手なアクションで人気を博す。

これをきっかけに、ロサンゼルスでハリウッドの俳優やプロデューサーを顧客に武術の個人指導をするようになり、TVや映画などのゲスト出演を重ねる

1970年に、香港の大手映画会社ゴールデン・ハーベストと2本の映画出演の契約をする。翌1971年に、成人後の初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開され、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットになった。リーは、一躍、香港のトップスターに躍り出る。

主演第2作の『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では主演と武術指導を担当し、3作目の『ドラゴンへの道』(1972年)では、自ら「コンコルド・プロダクション」(ゴールデン・ハーベストとの共同出資)を設立し、製作・監督・脚本・主演の四役を担った。この3作によって、リーは香港で不動のトップスターの地位を築き、ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社となった。

1972年秋から、リーの2作目の監督映画『死亡遊戯』の撮影がスタートする。しかしハリウッドのワーナー・ブラザースとコンコルド・プロダクションとの合作映画『燃えよドラゴン』の企画が持ち上がり、『死亡遊戯』の製作は中断される。

1973年1月から、アメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』の撮影が始まる。

1973年7月20日に、リーは、『死亡遊戯』で共演予定の女優の香港の自宅で頭痛を訴え、鎮痛剤を飲んでベッドに横になった。しかし、そのまま昏睡状態に陥ったため、クィーン・エリザベス病院へ搬送されたが、死亡が確認された。32歳であった。

葬儀は香港とシアトルで行われた。香港では数万人のファンが葬儀に参列し、シアトルの葬儀にはリーの弟子だったジェームズ・コバーンスティーブ・マックイーンも参列した。遺体はシアトルのダウンタウン近くのレイクビュー墓地に埋葬された。

【引用:ウィキペディアより】

ブルース・リーは俳優だけでなく、主演映画3作品目では、制作・監督・脚本・主演の四役を担うほどのマルチな才能もあり、また共同出資して映画会社まで作るほどビジネスにも意欲的でした。

ただ、俳優以前に彼は武道家です。単身アメリカに渡り、大学の哲学科に通いながら道場を開き、自身の流派である「截拳道」(ジークンドー)を創設しています。

そして映画俳優として多忙な中でも、日々トレーニングは怠らなかったそうです。ちなみ『燃えよドラゴン』の撮影時に、あまりの動きの速さにカメラがついて行かず、監督がスピードを落とすように指示したというエピソードもあったとか。

また大学で哲学を専攻していたこともあり、西洋および東洋思想に関しての書籍を読みあさり研究していました。その中に宮本武蔵の「五輪の書」があり、リーの思想哲学にも影響を与えたようです。

ブルース・リーの思想哲学は截拳道の思想面に活かされているとともに、映画やTVインタビュの中でもいろんな名言や格言を残しています。

その名言や格言が多くの人の心に残っており、ブルース・リーの魅力を語るひとつとなっています。

ブルース・リー 主な主演映画

  • 『ドラゴン危機一発』(1971年、原題:唐山大兄 THE BIG BOSS) ※日本では1974年の洋画部門の配給収入第4位
  • 『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年、原題:精武門 FIST OF FURY) ※日本では1974年洋画部門の配給収入第4位(ドラゴン危機一髪と同額)
  • 『ドラゴンへの道』(1972年、原題:猛龍過江 THE WAY OF THE DRAGON)※日本では1975年の洋画部門の配給収入第6位、
  • 『燃えよドラゴン』(1973年、原題:ENTER THE DRAGON 龍争虎闘)※日本では1974年洋画部門の配給収入第2位、
  • 『死亡遊戯』(1978年、原題:死亡遊戯 GAME OF DEATH) ※この映画を「リー主演映画」とすることには一部で異論がある。日本では1978年の洋画部門の配給収入第5位.

【引用:ウィキペディアより】

ちなみにブルース・リー以降のカンフー映画のスターといえば、ジャッキー・チェンですが、『ドラゴン怒りの鉄拳』と『燃えよドラゴン』に門下生などのちょっとした役で出ています。amazonプライムなどで探してみるのも楽しみのひとつですよ。

【引用:amazonプライムより】

ブルース・リー 名言

数あるブルース・リーの名言よりわたしのお気に入りを紹介します。

人は、自分が考えた通りの人間になっていく。

As you think, so shall you become.

人生を大事にしているなら、時間を浪費してはいけない。人生は時間の積み重ねなのだから。

If you love life, don’t waste time, for time is what life is made up of.

境遇なんてクソくらえだ。俺は自らチャンスを創りだす。

To hell with circumstances; I create opportunities.

失敗を恐れるな。失敗することではなく、目標が低いことが罪なのだ。大きな挑戦ならば、失敗さえも栄光となる。

Don’t fear failure. – Not failure, but low aim, is the crime. In great attempts it is glorious even to fail.

簡単な人生を願うな。困難な人生を耐え抜く強さを願え。

Do not pray for an easy life, pray for the strength to endure a difficult one.

考えているばかりでは、決して成し遂げることはできない。

If you spend too much time thinking about a thing, you’ll never get it done.

考えるな、感じろ。

Don’t think, feel.

 

ビジネスや人生において心に響いた名言をいくつか紹介しましたが、いかがでしたか?

実はブルース・リーは武術関係の書物だけでなく、ナポレオン・ヒルなどの成功哲学書なども読んで、自身の人生哲学に取り入れていたようです。

なので、現代でも多くの人の心に響く名言が多く残っています。

また最後の「考えるな、感じろ」は「燃えよドラゴン」に出てきた有名な言葉です。これだけだと頭の中が???ですよね。

いろんな人がいろいろな解釈をされています。これが正解、などはありませんので、みなさん自身で映画を見て考えてみてはいかがでしょうか。

 

どうですか、少しでもブルース・リーの魅力が伝わりましたか。

当時のちびっ子や若者がブルース・リーのマネをして、ヌンチャクのおもちゃを振り回していた姿は、現在の「鬼滅の刃」のブームと同じ感覚です。

それほど当時は大ブームでした。

単なる映画俳優だけでなく、武道家、思想家としても後世に影響を与え続けています。

そして人生の絶頂で32歳の若さでこの世を去った、ボクらには永遠のスーパースターです。

まだブルース・リーの映画を見ていない人はぜひ見てください。おすすめは「燃えよドラゴン」です。きっとブルース・リーの魅力と凄さが伝わると思いますよ。

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